宮田義人   1982年調布市生まれ。今シーズンで13シーズンとチームで最もアスレ在籍年数が長く、ここぞという場面で活躍する頼れるベテラン。Fリーグオフィシャルガイドの選手紹介コメントには「遠征中は家族の写真を眺めて過ごしている」と暴露されているが、自他ともに認める愛妻家で、instagramは家族仲睦まじい妻と娘の投稿が中心。
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F落選を経験した日から12年。今ここで宮田がやるべきこととは。

 

今シーズンから立川・府中アスレティックFCの試合を見はじめた方は、ぜひ背番号9番、宮田義人に注目してほしい。

それはなぜか?宮田は敵の攻撃の芽を潰すのが主な役目で、それほど目立たないし決して得点も多くない。しかしチーム在籍13シーズン、Fリーグ以前からアスレを知るベテランは、限られた出場時間の中でも確実に結果を残す。だから監督やチームメイトに信頼され、古くからのファンを大喜びさせる。
宮田が相手のエースを押さえ、ボールを奪い前線へとドリブルを仕掛けると、どっとアリーナが沸き上がる。それが宮田義人だ。

誰もが認める優等生タイプ。

熱血キャプテン世界の皆本 晃を筆頭に、アスレは本当に個性的な選手が多い。生意気キャラで売出し中の若き日本代表 内田 隼太、謎めいたエル・マタドール完山 徹一に、お笑い枠筆頭の飛騨 龍典。

そんなメンバーの中での宮田のポジションは、間違いなくイケメン枠である。スラリとしたスタイル、さわやかな風貌。ファンサービスも丁寧で、さらに芸能人の妻とかわいい2女という幸せ家族。もちろん女性ファンの人気は抜群で、さらに子供達にも大人気。つねにジェントルな立ち振舞で誰からも愛される優等生タイプなのだ。

積み重ねた200試合は怪我との戦いでもあった。

2018年6月23日に開催されたFリーグ第2節ペスカドーラ町田戦で、宮田はFリーグ出場通算200試合を達成した。

Fリーグが開幕した2007年から12シーズン目での達成。
ちなみに、北海道の大エース水上玄太選手が同節時点で308試合出場とトップを走り、アスレの同僚の完山徹一選手が295試合出場と3位。上位は皆、Fリーグ創生期から各クラブを引っ張ってきたベテランばかりだが、それと比べると、宮田の出場試合数は、それほど多くない。

なぜなら、宮田義人のフットサル人生は、繰り返す怪我との戦いだった。

怪我が多いのは、それだけ身体を酷使するから。全力プレーの代償ともいえる。決してフィジカルが強いといえない体格で、屈強な選手と渡り合う。

 

全力で走り続けてきた宮田の200試合。その中から特に思い出深い1試合を挙げるならば、2010年1月17日、アスレのFリーグ参入初年度の第21節のバルドラール浦安戦だという。

 

ここまでアスレは泥沼の13連敗。完敗もあれば惜しい試合もあったが、とにかく勝利から遠ざかっていた。どうしても勝てない。連敗中、宮田は故障で戦列を離れていたこともあり第9節のバサジィ大分戦以来、久しぶりの出場だった。

「自分が怪我をして出られない中、連敗が続いていたから、強い気持ちを持って出場しました」。

この日、宮田は1-1で迎えた後半に、勝利に近づく勝ち越しゴールを決めている。ボール奪取からドリブルで駆け上がっての見事なゴール。これが決勝点となり、ようやく手に入れた久しぶりの勝利に、アリーナは盛り上がり、客席では嬉し涙を流す人も少なくなかった。
これが宮田のアスレ人生で最も記憶に残る歓喜のワンシーンだとしたら、苦しいシーンはやはり「Fリーグ落選」だという。

調布のガキ大将からヴェルディへ。

そんなゴールが生まれる23年前、宮田は調布市に生まれた。小さな頃から身体が大きく、3歳にして立派なガキ大将。両親は元気が有り余る宮田をのびのび育てるために「駿河台大学 第一幼稚園」へと入園させる。ここは本格的な体操を教えたりと、運動面で進んだ教育方針が有名で「この子のために」と選んだのだった。

小学校入学と同時に調布イーグルスに入団し、サッカーをはじめる。宮田はサッカーの虜になり、3年生の頃には土日だけのサッカー活動が物足りなくなり、友達が通っていた「読売クラブ」のスクールへ通いたいと両親に相談した。

ちょうどそのタイミングで選抜クラスのセレクションがあり受験してみると、300人中わずか3人のみ合格という狭き門をクリア。
毎年、日本中から王様、神童、ガキ大将がJリーグを目指して集まってくる。時には1,000人もの受験者がいるというヴェルディのセレクションは凄まじい競争の世界。同じグランドで憧れのカズやラモスが練習するのを見て、多くの少年たちと切磋琢磨し「俺もいつかはあの場所へ」と願っていた。

その後も宮田は東京都選抜に選ばれるなど活躍していたが、中学生になっても身長があまり伸びず、どんどん他の子に抜かれていった。足元の技術や視野の広さ、判断力では負けていないと思ったが、中学生の体格差は大きなアドバンテージとなる。その結果、ヴェルディのユースへ上がれず、高校はスポーツ推薦で本郷高校へと進学した。

当時の本郷高校は、特にスポーツに力を入れており、同級生には水泳の北島康介がいる環境。そんな刺激的な高校時代、宮田はサッカーに打ち込んだ。入学当時のチーム力は低く、同じ巣鴨にある名門の三菱養和との練習試合では7-0でコテンパンにされたこともあるなど、当初はずいぶんと悔しい思いもした。

しかし、厳しい練習と監督の熱血指導が実り、不定期に行っていた三菱養和との練習試合で勝利を挙げることもあるなど実力は確実に上がっていた。このころ宮田はあらためてサッカーの楽しさ、仲間とプレイすることの歓びを実感していた。

大学でもサッカーを続けたいと、国士舘大学へと進学。全国からサッカーエリートが集まりTOPからC3の5軍まで分けられるという環境。宮田も当初はC1(3軍)スタートだったが2年のときにBチーム(2軍)に昇格し、3ヶ月後にはTOPチームで試合に出られるようになった。

このころ国士舘大学は関東大学リーグだけでなくJFLにも参戦していたが、宮田は主にJFLで戦い仙台や鳥取、富山へと日本中あちこちへと遠征を重ねていた。当時のJFLは将来のJリーグ昇格を目指すクラブも多く、補強された元Jリーガーとも対戦する。宮田はそんなサッカー生活を送りながら「現実的な将来」を考え始めていた。名門大学のトップチームでプレイはしていたが、子供の頃からの夢であるJリーガーになることは難しいと思っていたのだ。

フットサルとの出会い

大学生の頃、フットサルが流行した。宮田も友人とチームを作り、いくつか大会に出場するなどしていた。ある日の夜、いつものように中学校の体育館で練習していると、たまたま通りかかったサッカー部の先生と話す機会があった。

 

先生は宮田の技術やサッカー歴も知った上で「アスレで競技フットサルをやってみたら」と薦めてきたのだ。そのころアスレは本格的に競技フットサルに軸を置き、日本でトップクラスの実力を持つチームになっていた。アスレのサッカー部に所属していた先生は宮田のプレーを見て、充分戦力になるのではと考えたのだ。

宮田にとってフットサルはあくまで気軽な遊びだった。しかし、サッカーとはまったく異なる能力や技術が必要なことは既に知っていた。20歳の頃、府中市フットサル大会(通称:正月の大会)に出場した時、FUTURO、FIRE FOXなど有名チームに所属する一流選手のプレイを見て衝撃を受けたからだ。

「別次元でした!自分たちはミニサッカーで、フットサルは他の競技と思いました。本気でフットサルをやっているチームにはまったく歯が立たなかった」

ちなみにこの年宮田と友人たちは「フットサル大会で勝ち進むから成人式には行かない」と思っていたが、あえなく敗退して渋々成人式に参加している。

競技フットサルの未来を信じて。

晴れてアスレのセレクションに合格し、本格的にフットサルを始めた宮田だったが、そう簡単に主力として試合に出場できるほど甘くないのが2005年のアスレだった。

当時の監督はブラジル人のアドリアーノ。まだアマチュアの関東リーグという舞台ながら本場ブラジルから監督を招聘し、2年後に始まる全国リーグ参加に向けて、チーム力の強化を推し進めていた。その監督からすれば当時の宮田は、技術はあるが全くサッカーの動きが抜けない選手に見えた。

「ディフェンス面もそうだしフットサル独特の戦術にもついていけなくて、毎日のように怒られていました」と入団当時を振り返る。

しかしそこには、本気で競技フットサルに打ち込む世界があった。仕事が終わってからの厳しい練習、充実を感じながら宮田は少しずつ出場時間を増やし、徐々に活躍する機会が増えていった。「全国リーグができてプロ化されれば、フットサルで食っていけるという道が見えてきた。明るい未来が見えてきたと感じていました」。
そのころのトップ選手はみな同じ様な思いを持っていた。
各地で行われていた地域リーグが、競技者が増えるとともにレベルが上がり、それに伴い運営面も整備されていった。フットサル熱の高まりとともに、全国リーグ誕生へと向かっていった。アスレも法人化をし事業を拡大。地域との関係性強化、スポンサー獲得など足場固めを進め全国リーグ参入への準備を着々と行っていた。その先には、プロ化という夢も見えてきていた。

まさかのF落選。しかし活躍した全日本選手権。

2006年11月、翌年から正式に日本フットサルリーグが「F.LEAGUE」として開幕することと参加チームが発表されたが、確実と言われたアスレは、ホームアリーナである府中市立総合体育館の収容人数が少ないことからまさかの落選となる。

寝耳に水、青天の霹靂、まさに予想だにしなかった落選の報せ。

このときのことを宮田は今でもはっきりと覚えている。

「選手が集められて、落選したことが伝えられたのですが、頭の中が真っ白になりました。ショックが大きすぎて、他の選手も誰も一言も話せない、無言でその場を離れる、そんな状況でした」。

しかし宮田のフットサルこの頃覚醒する。このメンバーで戦う最後の舞台となる2007年の全日本選手権では、準々決勝でゴールを決め、準決勝でも1G1Aと活躍した。しかし、Fリーグのために結成されたプロチームである大洋薬品/BANFF(現在の名古屋オーシャンズ)と日本一を掛けて戦った決勝戦では、後に府中でチームメイトとなる上澤貴憲のシュートを手で止めてしまい、PKを献上するだけではなくレッドカードで退場と、悔しい試合となった。

しかしこの大会で、確実に宮田は評価を上げ、Fリーグに参入する複数クラブからオファーをもらった。
宮田は、Fリーグの舞台に立つことを希望し、その中からペスカドーラ町田へ移籍することを決断した。華々しく開幕した初年度のFリーグ、夢の舞台に立った宮田だが、度重なる足首の怪我で手術を経験するなど1年目は14試合出場3得点、2年目の2008-09シーズンは1得点のみに終わっている。

現在よりも攻撃的な選手であった宮田からすれば、決して満足のいく成績ではなかった。

そして府中からのオファー。帰ってきた宮田。

2009年よりのFリーグ参入が決定したアスレから、宮田へのオファーが届いた。
「あの悔しい落選から2年、アスレがFリーグに参入できることが決まったと聞いてやっぱり嬉しかったです。そしてアスレに声をかけてもらって。やっぱりアスレでFリーグを戦いたいと思っていたので、本当に嬉しかったです」。
あの連敗を止めたゴールをはじめ、いくつもの印象的な活躍をサポーターに見せてきた宮田。2009年以来、ずっとブラウンのユニフォーム一筋にアスレで戦っている。積み重ねた試合数は200。Fリーグ12年目と考えれば多くはないが、堂々と胸をはれる数字だ。

生え抜きベテラン選手の役割と、未来へ向けて。

宮田は現在35歳。Fリーグ開幕当初は若手だったが、今では経験豊富なベテラン選手だ。
数年前に結婚し、二人の娘に恵まれた。「ほんとうに子供は可愛いです」という宮田の力の源に家族の存在がある。
家族の支えは本当に大きい。
遠征先で家族の写真を見ることは事実だが「決して家族のためにだけ戦うわけではない」と宮田は言う。もっと大きなものを背負っている。
クラブ生え抜きのベテランとして、自分の技術や経験を、若い選手に伝える必要があるし、支えてくれるスタッフ、アリーナで声援を送ってくれるファンのために良いプレイを見せたいと思う。
宮田は思う。「アスレとの出会いがあって、フットサルを仕事にし、家族を養っている。スクールで教えている子供達が大きくなったときに、もっとサッカーやフットサルをよりよい環境でプレイできるようにしたいです。そのために今、自分が全力でプレイすることが、そこにつながっていると思います」。

もっと大きな物を背負って、宮田は戦っている。


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TEXT&PHOTO   KEN INOUE  2018.6.26